中国南部の大都市広東(現在の広州)と帰国の旅
空襲に追われた小学校の5年間
(1) 中国南部の都市の空襲は米空軍基地の桂林が拠点
1934年東京で生まれ、父の勤務の関係ですぐタイに移る。1939年までバンコックに在住、中国南部の広東(今の広州)には1942年まで、その後汕頭へ移動し、母、家族の一員だった茨城県出身の看護婦北村やすと子供たち3名の合計5名は、1942年汕頭を離れ上海経由で同年5月に東京へ帰ってきた。父は現地の収容所で1年過ごし、翌年引き揚げ船で帰国している。当時、第二次大戦勃発後、中国の沿岸部の主要都市は日本陸軍が占領し軍隊を駐留させていたが、残りの広大な内陸部分は大戦を通じて米中連合軍の支配下にあった。日本軍の支配は「点と線」だけであって、「面」には及んでいない。厳密にいえば、「線」もしばしばゲリラの襲撃に脅かされていたから、孤立した「点」だけを占領していたことになると思う。
戦後30年、中国へのパッケージ・ツアーが盛んになったころだが、新聞の広告で中国南部の桂林が代表的な観光地になっているのを見て仰天、水墨画のような岩山の景観を楽しみながらの川下りで有名な世界的な観光地であることを初めて知った。40歳過ぎになるまで、記憶では、桂林は在支米空軍の基地だったのである。第二次大戦が始まってから敗戦までの4年間、中国南部で恐ろしい思いをした空襲はすべて桂林から飛び立ってきた在支米空軍機によるものだった。
1941年12月8日の開戦の詔勅は、広東の英国疎開地紗面の二階建てビルの社宅で聞いた。会社の若い方が二名おられ、父と三名で聞いているのを覚えている。人には話せないことだったが、アメリカには到底勝てないだろうということで三名の意見が一致していた。商社の人間として、物資の豊かさでは日本はとてもアメリカの敵ではないことを普段から知っていたからであろう。
その後首相となった芦田均が広東に来た折り、父が車で市内を案内しているが、この時芦田は「何で勝てない戦争を始めたのかねー」と嘆いていたとのことだった。政治家は当然だが、経済面での両国の実力を良く知っていた中国在住の商社関係の日本人は、当時少なくなかったのである。
私が初めて戦争を体験したのは小学校2年の時の12月8日朝の広東大空襲だった。突如、当時空の要塞と言われていたB-17の大編隊が快晴の空を覆い、市内の日本軍、軍事施設に壊滅的な打撃を与えた。完全な奇襲攻撃で、1年前の真珠湾攻撃に対する報復爆撃だった。明らかに同じ日の同じ時刻を選んだのである。
不意打ちだったので戦闘機の迎撃が遅れ、B-17 の1機が恐らく高射砲の至近距離での破裂に出会って空中で爆発し垂直に落ちていくのは目撃したが、ほとんどが無傷で引き揚げていった。広東では、沙面(シャーメン)というイギリス疎開地に住んでいて、登校前の朝だったので、米軍機の爆音を聞くとすぐに外へ飛び出し、終始爆撃の様子を見ていたのである。
疎開地は安全だったが、軍事施設のある市街地はかなりひどくやられ、日本人小学校の8歳になる同じクラスの男の子がこの爆撃で殺害されている。機銃掃射で弾が腹部の中央を貫通したとのことで、ベルトのバックルが普通の位置にあれば助かったのだと、合同慰霊祭で校長先生が話しておられた。
